@ 浅茅原について図会は、「総泉寺大門のあたりを言ふ」とそっけなく書き、絵にも挿入されている室町時代の行脚僧の道興准后の和歌を紹介しているのみである。
 「浅茅」とは、背の低い茅萱のことである。「浅茅生の里」や「浅茅が原」は土壌の栄養分が少なく農地に向いていないことはもちろん、樹林も形成されないので、人の寄り付かない淋しい場所の代名詞として万葉以来の日本文芸の中で使われてきている。
 道興はその著廻国雑記に、わが娘を遊女に仕立てて男を誘い込ませ、褥に入って気を許したところで男の頭を打ち砕いて金品を奪って生活していた親がいた。娘は良心の呵責から褥の中で男の装いをまとい、親はいつものように頭に石を落として娘を殺してしまったという伝説がこの地にあると書いている。話自体は謡曲「安達が原」の元となった伝説と同工である。この地域でもさらに浅草寺の観音や姥が池を関連づけた演目ができた。
 この地域に隣接する「浅草」も「深草」と対比して背の低い草の意味の熟語で、「浅茅」と同根だと私は思う。
A 鏡ヶ池には、隅田川の対岸と繋がった言い伝えもあった。本文で塚を紹介した「妙亀」は、揺光之部の「白鬚東」の節で書いた梅若丸の母花御前の法名である。梅若丸への村人の手厚い弔いと自身の出家にもかかわらず心晴れなかった妙亀尼はこの池に投身し、こちらも村人が妙亀塚に葬り妙亀明神社を設けたというものである。それどころか、曹洞宗の名刹総寧寺の山号まで妙亀山なのだ。
 川のこちら側の話では、鏡ヶ池に入水自殺した女性が「名をそれとしらずともしれ猿沢のあとをかがみが池にしづめば」という辞世の歌を傍らの木に残してあったので、吉原から抜け出した遊女の「妥女」と身元が判ったというのがある。本文の妥女塚のいわれである。しかし、奈良時代に妥女(後宮の女性の一般名詞)が帝の寵愛が遠くなったのを嘆いて猿沢の池に身を投げた能の演題を知っているかどうか試すような話であるうえに、辞世の歌が何ともわざとらしいではないか。