カエサルがルビコン川を渡ったのと同様、隅田川も歴史を変えた場面に登場している。 @ 頼朝の渡河 伊豆から上総に逃れていた頼朝は、態勢を立て直して勢力圏を拡大し、隅田川を渡る事になる。 石浜に知行を与えられていた江戸太郎重長は、頼朝から浮橋の設置を依頼されたが、たまたま川は水かさを増しており、安易に請負うことができないでいた。 このことを伝え聞いた千葉氏と葛西氏は、漁民を動員して江戸氏に協力し、石浜に渡る船橋を作った。頼朝はこれを使って川を渡り、板橋まで進出した。 以来この地域は橋場と言われるようになった。 A 尊氏の渡河 正平7年(1352年)新田軍(義貞の遺児義興など)との府中分倍河原の戦いなどで消耗した足利尊氏軍は、鎌倉(南)へ向かった本隊と離れて東へ兵を引き、翌日に隅田川に到達した。一旦は陣を立てるが、新田軍の追撃があるとの情報で急きょ渡河し、大部分が渡り終え、水陸の境が見わけられないほど暮れたころに追手が到達した。 新田軍も消耗しており、渡河をあきらめ隅田川西岸の足利軍の残兵を制圧するだけだった。尊氏は態勢挽回の時間を持つことができ、一旦は明け渡した鎌倉を奪還し、室町幕府の成立に進んでいくことが出来た。 あわせ図幅の注も参照されたい。また、新田義興については、玉川下流域の新田神社などで(天枢之部)説明する。 |