どんなに広い川の岸辺であってもそのゆえに「浜」がついた地名は殆どないので、石浜は地名を使いだしたころ海に面していたと考えるのが妥当である。譲って隅田川の河口部だったと思われる。 橋場は、頼朝が上総から鎌倉方面に戻るときにここに船橋を設けたことから使われるようになった地名で、海が遠のいているのに「浜」を使うことに抵抗があって普及したのであろう。 図会の図幅で隅田川河岸に「此辺別荘多し」とキャプションされている状況は明治以降も続き、貴族や成功した実業家の別荘が並んでいた。隅田川での川遊びや水を引いての庭園造りに適していたからである。 しかし、震災や水害さらには米軍の空襲のつど失われて公的な施設になっていった。 災害に弱い地域には、なんらかの差別を受けた人を含む社会からスピンアウトした人が住みつきやすい。過去の歴史でもそうであったし、今も隅田川の岸にはブルーシートのホームレスの小屋が点在している。そのためかこの地域では他より人権擁護関係の看板が目につく。個人的には、人権活動は繁華街や官公署街で強調したほうがトータルな差別意識解消には良いと思うのだが・・・・・。 前節で省略したが、山谷堀は、王子で石神井川から分水した音無川が田端を経て三ノ輪に至り、土手通りの北を流れてきたものであった。 橋場での隅田川の支流に思川があった。演歌の題名になりそうなこの川は、図会に記述があり、道興准后の和歌が添えられ、描かれてもいる。源流は三ノ輪の北にあった池で、その西の地域の地表水を集めたこの地域のため池で、音無し川から引いた用水の放流先でもあった。 市街化の進展で、水田が消滅するとともに水利権は消えていき、明治通りの整備に伴って排水の役割を道路下の下水幹線に譲って地表から消えてしまった。 本文で取り上げた鏡ヶ池とも繋がっていたし、図会が描いた水鶏を愉しんだのも思川の下流部だろう。 現在思川の存在に繋がるのは、幹線道路の交差点として交通情報に登場する「泪橋」(図会には記載はない)である。橋の名の由来は、道興准后の和歌「うき旅の道にながるる思ひ川涙の袖や水のみなかみ」とも川の北の小塚原刑場に引かれる受刑者を家族などが最後に見送っる場所が思川に架かるこの橋の上だったことからとも言われている。 |