@ なぜ「吉原」なの?
 駿州元吉原の駅より、・・・・・<略>・・・・・輩二十余人が江戸に来てあちこちで遊女屋を始めたが、お上と相談して職業町としての集団化を図った。 最初は、京橋具足町の東、泥沼の地を埋め立てて集まったが、その後葺屋町の末(現在の人形町)に移転し、「吉原町」と名乗った。と図会は説明している。 しかし、注書きで、「両地とも葭(よし)が生え居ているばかりの土地だったから、<葭原>と言われていたのを縁起の良い<吉>に変えた」との菊岡沾涼の説も紹介している。
 人形町では40年ほどで、現在の千束4丁目の地では売春防止法施行まで300年の歴史があるのだが、昭和41年の住居表示変更までずっと「吉原町」であった。
 巷間では、新を付けなくても「吉原通い」は遊廓での夜遊びを指していた。
A 廓の構造
 ここに限らず、遊廓は字の通り、囲われた区域になっていた。遊女や客の管理上周囲に塀と堀をめぐらし、出入り口は原則大門のみとなっていた。火災時には、塀の一部が倒れて堀をまたぐ橋となるように作られた非常口もあったが、どれほど役立ったかは明らかでない。
 大門から入っての背骨の通りは「仲通り」とか「仲の町」と呼ばれた(人形町の大門通りは仲通りの名前を変えたものである)。仲通りに面した店とそこの遊女が格上であったことはいうまでもない。仲通りから左右に入る小路にも店はあったが、分離型の置屋や町を支える諸機能が配置されていた。
B 言い回し
 一般の会話の中で「吉原」と使うものの、書きものにしたりやや表向きの場では別の言い回しをしていた。「北州」、「北の里」などがそれである。「便所→雪隠→トイレ→お手洗い」も同様の経過であるが、使い慣れるとわれわれの脳みそは実体のほうへシフトして判断するので、いたちごっこである。