本文に書いている「泪橋」が江戸時代から大正初期まで思川に架けられていた。その名前の由来は不確かである。
 図会は、思川の項で、回国雑記のうき旅の道にながるる思ひ川 涙の袖や水のみなかみという歌を引いている。しかし、泪橋には触れていない。
 「小塚原刑場に送られれる受刑者本人とその親族がこの橋付近で今生の別れの涙を流した」という俗説がブログに出回っている。この俗説が江戸時代に有ったか無かったかは不明。図会が小塚原刑場開設の200年前のものを引用したのは、俗説が有ったので遠回しに疑問を呈したようにも思える。
 なお道興准后は前日に岩槻から浅草に来て泊り、当日は浅茅が原→思ひ川→隅田川(橋場→上流)と回って浅草に戻っている。