現在の隅田川の範囲は、図会の時代よりも広い。本篇中でも回向院など、そして開陽之部、天枢之部でも現代の隅田川下流を訪れる。
図会はそこではこの川を「浅草川」としている。隅田堤の南端から南は河口港の役割があったので堤防は築かれず、川の様相が異なっていた。
逆に図会の時代の隅田川(向島から上流)の両岸は、日本堤と墨堤とに挟まれて洪水のときには一面の氾濫原になる地域であった。
このため、江戸に生活する人にとって、上下別称は何の不思議もなかった。そして両方まとめていうときは単に「大川」であった。