昭和40年代始め、現在の鐘淵中学校を中心とする広汎な土地は鐘淵紡績の工場敷地だったが、墨堤通りはもっと狭かったし、周辺市街地は木造建築と中小の工場が混在密集していた。これまでに説明してきたように都内の工場は経営戦略の転換を迫られていたkら、用地の東京都への売り渡しは条件次第だった。
 東京都の職員の案内で私も現地を見たが、木母寺も水神宮も混在市街地の中にひっそりと埋もれていた。事業は宗教施設である両寺社の取り扱いを巡って遅延していた。  排他的な教義の宗教の信者から公共工事や学校の行事での安全祈願を現場や神社などで行うことが訴えられ、天皇の靖国参拝が取りやめになった時期で、ただでさえとやかく言われる補償費の適正水準がなにかは難しい課題であった。  しかし、一方では地元に梅若塚保存運動が始まり、事業者の東京都も神経質になっていた。
 旧中川下流部でコミットした亀大小地区よりも早く事業着手したこの地区は、江東地区の防災拠点計画の原案に最も近い姿で実現している。墨堤通り沿いの列状高層都営住宅群は、大火災の防火壁として建てられている。前後の棟の間には非常に厚い鋼板のシャッターが下りるゲートが設けられ、屋上には大水槽を置き、東棟の東側にナイアガラの滝さながらの水を放出するドレンチャーという特別設備や散水銃を設けてある。  関東大震災と空襲の火災などからシミュレーションし、事業を行わない墨堤通り東の市街地が一斉炎上しても鉄骨鉄筋コンクリート造住宅が高温になって多くの人が避難する公園側に熱が伝わることのないように設けたのがドレンチャーであり、散水銃は公園側にゲートの部分や上空から流れ込む恐れのある熱風を冷やすために設けられている。
 当初毎年9月1日の防災の日には、訓練を兼ねてこれらの壮大な装置の点検を行うこととしていたのだが、ドレンチャーの放水は周囲を水浸しにし、住宅入居者に大きな迷惑がかかることが判明し、1回で打ち切りになった。梅若門など由緒ある名前を付けたゲートを下ろすだけのことは時々やっているが、これだけでも一大イベントである。
 公園内には、地上地下に防災倉庫が設けられているほか、都のリハビリテーション病院も災害時には負傷者救護本部になることになっている。