絵の「梅若丸と藤太」にキャプションされている「本文に詳」を書く。
 本文では塚をタイトルにして、木母寺の境内にあり。塚上に小祠あり。梅若丸の霊を祀りて山王権現とす。・・・・・とまず書いている。
 道興准后、関白一條康道、同近衛信尹、良尚親王の和歌を紹介し、木母寺の縁起に書かれている梅若丸の伝承を丁寧に紹介している。
 さらに注記を補うと、梅若丸は吉田少将惟房の子で、寺に入ったのは5歳で父が没したためである。担当の法師が別の法師担当の修学子と才能を競わせて勝つが、これがもとで坊と坊の争いになる。そこで注記ののかれ出てとなる。
 続けると、拉致行中に発病した12歳の梅若丸は、「尋ね来て問わばこたえよ都鳥すみだ河原の露と消えぬと」辞世の歌を残してここで亡くなる。通りかかった羽黒山の僧忠円が村人と塚を築いて祀ったのが「梅若丸塚」である。
 一年後村人たちが集まって法要をした。それを梅若丸探しの行脚をしてきた母が見つけ、船頭に尋ねてわが子の塚と知って法要に参加する。我が子の幻と言葉を交わすことのできた一夜が明け、草堂を建てて祀ることを忠円に頼んだ。その草堂が梅若寺、後の木母寺である。
 長秋は、「秋夜長物語」と謡曲「桜川」の概略を書いて、この縁起を冷ややかに見ている。
 前者は、叡山の修行僧が左大臣の子で美形の<B>梅若に会って男色に陥ち、梅若のほうから寺に行こうとして道に迷って行方不明になった。彼を探すのがきっかけで焼き討ち騒ぎになった。梅若はその後龍神の援けで戻ったが、我が家や寺々の惨状を見て、わが身を嘖んで瀬田橋から身を投げてしまう。 男色をとりもち一緒に道に迷った梅若の下童は高野山に入り、修行僧は出世欲を捨ててひっそりと庵を結んだ。というものである。  後者は、九州に住んでいて拉致された子供を半狂乱で筑波山の麓の桜川まで探し歩き、渡しでからかわれても子供の手がかりになるのならと水面の花弁を必死ですくい上げる若い母親のなまめかしさをも謡いこんだ謡曲である。 この様を見た親切な里人の援助で、子供の引き取られ先の寺で子供に会って正気に戻り、住職の慈悲で九州にもどるという、こちらはハッピーエンドのストーリーである。
 そして初めのほうに記した文明18年(1409年)の道興准后の和歌で、「古塚」とだけ言っているから伝承は定かではないと結んでいる。

 木母寺の名付け親である近衛信尹は、左大臣の時秀吉に朝鮮派兵を勧め、天皇の怒りを買って島津藩に預けられたが、秀次が失脚して武家関白が廃されると復活して関白になった。関白を辞めたあと文人として活躍し、寛政の三筆と言われ、木母寺所蔵の文化財が残っている。
 近衛信尹が「梅」を分解したのは、ある意味遊びで、「あずま人はストレート過ぎるよ、どこまで本当か判らないか判らない伝説なんだからぼかしておいたほうが品があるよ」という公家ならではの発想と思う。
 長秋は真面目なあずま人だから、木偏に母は栂(つが)なので違うのではと疑問を呈し、紀友則以下の古歌で「木毎(きごと)の花」を梅とかけている例を引いている。信尹にすると「木毎寺」ではストレート過ぎということだろう。