私は建設省勤めの間にこの公園整備に間歇的に関係した。最初は、大学を出る直前まで指導を受けていた先生(後に防災研究の第一人者としてたびたびテレビに登場するようになった村上処直さん)から就職後最初の連休明けに新幹線のホームまで追いかけて頂戴した原稿である。 助手の前の講師で兄のような存在だった先生は、私の前任者を窓口にして前年度に役所からの委託調査を引き受けていた。隅田川と荒川(当時は「荒川放水路」が正式名)に挟まれた地域では関東大震災と米軍の空襲によりそれぞれ何万人もの犠牲を出した。その後も高度経済成長で重化学工業が立地したり、モータリゼーションの進展に併せてガソリンスタンドが多数できており、昭和40年にはすでに喧伝され始めていた69年周期説の大地震が起こったらどのような事態が予測されるかという委託調査で、私が東京駅で受け取ったのはその調査報告書の原稿であった。 前年度中に調査が終わっていなかったことも社会人一年生の私には驚きであったから、4月の新人研修が終わるや否や先生にせっついて、必ず連休に書き上げると言う約束をいただいた。先生は郵送して大阪へ出張すると言われたが、「開業一年足らずの新幹線を見に東京駅のホームへ入場券で行くから、車両番号を教えてくれ」と言ったのだった。 しゃにむに手にした原稿の中身は、「戦災以上の被害が出る」というもので、上司は驚愕し、再度より詳細な調査を行うまで公表は差し控えることになった。しかし、墨東地区を耐火建築ゾーンで十字に仕切って災害の単位を4分割して対処すると言う提案は私にも十分納得できるものであった。 より詳細な調査のための予算は、私の最初の部署では準備できなかったが、より詳細な調査を行い、対策を講じ始めた他の部署に8年後に着任した。大都市内部のこの地区の工場にとって、入出荷のロジスティクスの経費は増加するばかりであったし、過密な環境でのプラントの新増設は困難になっていたので、内心では行政が買い上げてくれるのを待っていた。 建設省と東京都との検討で、十字の耐火建築ゾーンの主要地区に設ける防災拠点を優先して整備し、十字のゾーンは街路の拡幅と沿道の不燃化で順次行うこととされていた。また、防災拠点計画に基づいて都が工場用地を買い上げる資金を一般事業とは別枠で国が助成することとしていた。亀戸・大島・小松川地区も防災拠点のひとつで、本文で「小高く盛り土した公園」と書いた場所にあった日本化学工業の小松川工場も対象工場の一つであった。 私が担当になったころ既に何年かの分割で都が買い上げていたが、そこで予想しなかった問題が起きた。六価クロム土壌汚染事件である。現在工場跡地は当然として大規模な土地取引に土壌調査が不可欠とされるようになったきっかけでもある。時間もお金も元に戻せないため、この場所は海路からの救援物資を受け入れたり脱出する機能を当初計画していたが、無害化が立証されるまでは覆土して積極的利用をしないこととなった。 10年以上後に調査して計画を再検討することになっていたような気がしていたので、今回訪れてみると本文に書いた六価クロム処理事業が実施中であった。 それは高濃度3000m3は密封して埋め、15000m3は還元(元素の活性を下げる?=6価→3価?)するというもので、そのために公園南の河川敷を国土交通省から都が借りて大規模プラントを設けていた。事業は平成13年から平成24年3月まで行われるとの表示があった。歴代知事が先延ばししてきたことにゴーサインを出したを石原知事は評価するが、化学処理は低濃度のほうが高濃度より難しいと思う。前向きでない仕事ほど誰もチェックしたがらないので化学薬品メーカーやそれに結びついた学者に騙されていなければ良いのだが・・・・・。 もう一度ここに関わったのは最終的な施設整備の段階であった。旧中川の両岸を一体の大島小松川公園内とするため、道路の橋に負けない幅の橋をいくつか架けることとした。日常の公園利用を通じて両岸の一体性を体験しておくことで非常時に旧中川の西(江東区)から東(江戸川区)の荒川河川敷などへの移動の抵抗感を減らそうというものであった。 地上化して川の両側(両区)に跨った都営地下鉄の東大島駅はもう出来ていたが、鉄道所管ではなかったこともあり防災的意味合いからか誘致合戦の結果かは聞いてない。 なお、海路の救援計画は完全に消えたのだろうか。平成橋のクリアランスは小さく、平成橋より上流に緊急救援の船は入れない。こちらは世界都市博にご執心だった辣腕鈴木俊一知事の時代のものである。尤も、旧中川の荒川閘門(国土交通省所管)を大型化する計画が前提ではある。 |