中川が元来の利根の川筋であったことは、行徳の手前で触れた(図会の新利根川)。
 人工的に川筋を変えても自然は元の流れを求めて流れようとする。明治新政府になって明治29、31、43年と3度埼玉県内で利根川から水が溢れ、中川流域に氾濫した。 水は、近代化の象徴として工場が集積しはじめていた東京の下町の工場地帯を水浸しにして東京湾に向かって流れた。新政府も前2回の水害で対策を検討していたから、 明治44年には@隅田川の上流部の荒川を中川河口部に導く放水路A中川中流の新宿から江戸川の今井に直進する新中川B行徳手前からの江戸川放水路の3本の工事に着手した。
 新中川の主要部の工事は、第二次世界大戦後のキティ台風などの被害を受けて本格化・完成したが、この3つの工事によって中川は一体の流れを失って三つの小区間ごとの水流に分割され、 中川沿いに形成されていた家並みは分断され、新流路の区域とにあった名所も家も移転することとなった。
 中川が綾瀬川を合流する所から河口まで中川は荒川放水路とは抱き合わせになっている。  荒川放水路(現在は荒川本流)などの開削は、信濃川分水工事とともに大正時代の2大河川開削工事である。明治時代の大土木工事には外国からのお雇い技師が指揮をし、人海戦術で掘ったり築いたりしていたが、 この両工事は内務省の青山士技官の指揮の下行われ新しい建設機械を積極的に活用した。
 青山士は、大学を出た後パナマ運河の開削工事に一補助員として携わった後評価されて閘門や水路の設計も任されるようになった。帰国して内務省に奉職してこれだけの工事を仕切ったのだが、 事務官との対立から栄達の道を与えられることなく第一線を退き、両工事の銘板に彼の名は記されていない。