妙勝寺の開祖日尚上人は、14歳のとき舟で遭難し、この地の漁師に助けられた。 漁師の世話で日蓮高弟の日高上人や日祐上人の弟子となり、日尚の名を得てここ妙見山の傍らに草庵を設けた。 遭難時にした命乞いを聞き届けてくれたお礼に水神を祀ることとして日高上人にご神体の点眼をしてもらった。 と図会は書いている。 この辺に妙見山があるはずはない。妙勝寺の項中で書いているにもかかわらず、水神宮は描かれていない。 境内には、記述のない「鬼子母神」「三十番神」が描かれ、現在水神宮と合祀されている稲荷神社もない。 ところで立て札には、 かつては水神宮があり、現在開山堂が建てられ云々となっている。 この開山堂も図会は描いていないが立て札の記述で水神宮が寺と一体だったことが示されている。 立て札では寺の興りは妙見社の近くと書いており、図会とのギャップがある。 戦国時代初期に千葉氏が守護神妙見菩薩の堂を妙見島に設けた。妙見堂は妙覚寺へ移転したが、跡地は妙見神社として 祀られてきているので妙見山(社)は、妙見島のこととして良いと思う。 日尚上人が水神宮を祀ったのも「妙見島近く」の現在地と考えられる。 以上から経緯を推測すると、 @ まず妙勝寺が水神宮現地(=妙見島近く)から現在地に移転した。 a 水神宮は移転しなかったので、図会には描かれなかった。(立て札は「水神宮の位置=開山堂」とまでは書いていない) b 水神宮も移転したが開山堂建設で再び旧地に戻され、図会が描いたのは開山堂建設準備中だった。 A 稲荷神社は、 a 水神宮の境内に合祀された。(天保以前。以降の場合は鳥居は移設) b 元来現在地にあり、水神宮を後から合祀した。 後の管主が開祖ほどの熱意がなかったにせよ、明治まで妙勝寺が水神宮の別当をしていたことは間違いないと考えられる。 @bAbの流れは稲荷神社の別当がいて他の寺だった場合には考えにくい。 いずれにせよ稲荷神社の鳥居のほうが健在のことや明治以降の公共工事に伴う措置の有無などを改めて調査をしないとはっきりしない。 先刻ご承知の方がおられたらご教示いただきたいところでもある。 |