地蔵の前で転寝をしている間に反物を盗まれた手代は盗人探しを願い出た。聞き届けた大岡越前守は、 地蔵を縛って市中を引き廻して野次馬を奉行所に集め、不届き侵入を反物提出の科料で赦すとして盗品を 見つけ出した。という縛られ地蔵の話は、もちろん創作で原典は中国の民話であるという。講談になってから いくつかの寺が便乗し、南蔵院の話が最も流布していた。しかしインテリの齋藤長秋は採用しなかったようだ。 神仏分離令に関わらず、南蔵院は移転した昭和4年までは業平神社を習合していた。図会によれば 現言問橋の東の隅田公園の場所(水戸藩邸)にあったが、北十間川や横十間川の整備を理由に現業平橋駅 南(たぶん本所税務署からその西の都公社住宅)に移された。 移転先は「業平村」と言われるようになり、現浅草通りが横十間川(現在は公園)を渡る橋は「業平橋」となり、 橋の名は東武伊勢崎線のターミナル駅(開業当初)の名になった。 移転でお上の世話になったこと、確たる氏子もないこと及び業平は高天原に本籍がないことなどから移転の 際に廃社措置が取られた。 なお、図会が指摘しているように業平がこの地で死んだということはありえず、また業平神社は全国あちこち にあった。明治以降多くは「在原神社」と名称変更をした。 |