関宿分水が行われるまで、利根川の主流は現行田市付近から分流したり合流したりして東京湾に流れ込んでいた。現江戸川は、最も東の分流で東京湾への最大の流量を担っていた。現流山市南部から松戸付近に至る区間は、大きく東へ湾曲して流れており、樋の口付近で現流路に戻っていた。 この湾曲部の直線化工事は関宿分水とほぼ同時で、併せ江戸人口急増対策としての新田開発重点地区でもあった。しかし、この湾曲部の埋め立ては厚くなく、旧利根川流路はいわば霞堤(下流にとっての見えない堤防の意味。平常時は低湿地だが、高水時には調整池の役割を果たす。)のような場所だった。 この残留水路は、高水時に合流地点から江戸川本流の水が逆流し「逆川」と呼ばれた。挙句は霞堤だからなかなか水は引かなかった。開発された新田は、3年に1度の収穫だったと言われ、上下流地域の水争い(通常は奪い合いだがここでは押し付け合い)は、地域の宿根だった。 逆川の利根川(現江戸川)合流地点を国府台断崖近くまで移して水勾配を一定に保つための工事の完成は新田開発から凡そ200年後の天保年間だった。 しかし、昭和初期に樋野口排水機場などに動力ポンプが設けられるようになるまで旧逆川(現樋古根川)沿いは、排水性の悪い低湿地であったようだ。 ところで、図会の取材はこの坂川の工事中のはずである。図版の「本河岸」というのは他に登場せず、他の資料では「本多河岸」というのが「平潟河岸」と並んで逆川の河岸とされている。そして松戸の主要な船着き場は江戸川の河岸である「納屋川岸」であったとされている。 図版左端の利根対岸に「金町」の付注がある。水戸街道の渡しとすると、松戸本陣のあった下横町の広小路がこちら側に描かれるべきである。なお旧逆川の合流地点の対岸は「小向村」で、金町の渡し場からは1kmほどずれている。 結論として、長秋・雪旦は松戸を訪れていないのではないかと私は推察している。 納屋川岸と平潟河岸の間には陸運水運の関係者を主たる客とする遊郭が江戸時代に設けられ、明治以降平潟河岸の区域全体にまで広がって昭和33年の売防法施行を迎えた。この間昭和初めまで低湿地だったこともあり、高級遊郭とは言えない状況だったようである。 |