図会は、次のように書いている。
「長島湊は、<行徳の内ではない>葛西の長島と一対になっている。<国府台のほうでもこちらでも>伝えでは、太田道灌の頃は、国府台の湊に船を泊めたという。 その後<地の利に合った>便利な高瀬舟が開発され普及して上野、下野、常陸<の上流地域>、上総、下総<の下流湾岸地域>、東北地方<の外洋航路からの物資>が 行徳へ運ばれるようになったという。」 図会の注記はついでに知識を記録したり、自信のないものを注記にしている傾向がある。ここでも長島湊というタイトルをあまり説明していない。また、「葛西、長島、高城」は 葛西>長島>高城という序列の地域概念を前提として記しており、同列ではない。 ところでこの本文の記述は、太田道灌の頃行徳長島付近は瀬が浅くて湊にならず、10km以上上流の国府台(=真間)まで船を遡らせていたいうふうに読める。 他の部分の書きぶりからしても、齋藤長秋がこのような矛盾を残すはずがなく、矛盾が生じないよう長く説明する必要がないと認識していたと考えられる。また、正順で次の項の 「新利根川」で書くつもりで書き忘れたのかもしれない。 そう、真間の湊に別途通じていた水深の大きい川が新利根川になる過程で消滅したのである。旧渡良瀬川(太日川)は、国府台を削って鐘が淵の断崖を形成するほどの力があった。 本篇最初の節の「私の推察」で書いたように、太日川などが形成した干潟や砂州を突き破って深い澪を穿って真間の湊への幹線航路となっていたのであろう。 そして、消滅は前節で「図会の新利根川」に書いた、利根川の東遷と分水である。一旦源流の水が閉じられたことにより、元利根川や太日川の改修工事はかえって しやすかったと思われる。また、水田転用のしやすかった氾濫原や干潟は既に幕府の了解を得ていたと思われる。再び水を通すにあたって、瀬が浅く両岸がしっかりした砂嘴の 間を流れていた傍流の現旧江戸川ルートが図会の言う新利根川になったのである。地図で見ても京葉道路付近から下流の旧江戸川の右カーブは不自然で、大正6年の氾濫や カスリン台風での氾濫の主要部は真間川流域で、ここにこそ太田道灌の頃まで真間湊と海をつなぐ水深の大きい川があったのである。 ようやく本題の長島湊である。私は、次の点などから妙見島北部から東対岸の浦安市欠真間にかけてではないかと推測する。 理由@ 妙見島は明治半ばまでは欠真間村であった。欠真間を広い意味で「行徳」というのは不自然でない。 理由A 「欠真間」は、「真間と掛ける」で、国府台(=真間)の湊の機能を掛け持ちしている場所という意味であろう。 理由B 前節の行徳汐濱の図で、本行徳からの人の流れの船橋街道に右方から合流する道が物資の流れとしての長島湊からの道と考えられる。 行徳の塩を江戸市中に運ぶルートとして掘られた新川は、房総側の港として存在していた長島湊に向けて開削されたと考えるのが素直である。 |