総寧寺は、北條氏政が近江から誘致し、徳川幕府も庇護した関東の曹洞宗の拠点であった。このため、現在の里見公園の殆どを境内とし、周囲の林も寺領という権勢を誇っていた。
門前の説明書きには貫主は江戸に旗本屋敷相当の屋敷を与えられていたと書いてある。 しかし、明治政府が江戸時代を否定する政策をとったこともあり、当初は大学用地として、次に軍用地として同寺の所有地の大部分を接収した。本堂から南に延びていた参道は山門の前で切られ、 惣門などは山門前から東に折れ曲がった現在の位置に移された。 曹洞宗は箱根から西では、本家永平寺が仕切っていたが対抗勢力としては一の分家の能登総持寺だった。薩長土肥からなる明治政府は、明治31年に仏閣を焼失した総持寺が総寧寺に代わって、 関東の曹洞宗の元締めとして横浜鶴見に移転することに何の異存もなかったし、本家の永平寺もうるさい分家が遠くに行くのがよかったに違いない。 こうして総寧寺の影はますます薄くなってしまった。 総寧寺の旧領の国府台が軍用地(門前の説明書きには学校の約束だったと書いている)で戦後払い下げられたことは本文でも書いた。そのうち、寺の境内だった部分は市川市の里見公園になっている。 「里見」は、ここに城を構えていた千葉一族を破った里見氏で、鴻乃台の戦で北條氏に敗れた里見氏に由来している。瀧澤馬琴の南総里見八犬伝の里見である。 国府台は父が短い期間過ごした場所であり、一度訪ねたいと思っていた。仕事のかかわりもなく住まいは都心を挟んで反対側になったので実現したのは上京40年以上の後、こうして自転車で訪れたことを墓前に報告するしかなくなった。 若い頃の結核感染で徴兵検査乙種の父に赤紙が来たのは昭和20年5月、既に36歳の誕生日も過ぎてからであった。父は、応召の後、米軍の飛行機の見分け方と高射砲の発射訓練を国府台で受けたと言っていた。 その後熊本の宇土半島に築かれた高射砲の陣地に配属になったが1発も撃たないうちに終戦を迎え、重たい軍用毛布、ゲートル(巻脚絆)それに鉄兜を二つずつ土産にして帰ってきた。 |