二之江神社は江戸時代以前から昭和42年まで「香取神社」として存在していたと、江戸川区の現地表示板に書かれている。しかし、古川の南も含んで描いている図会の妙勝寺の図版には描かれていない。妙勝寺境内の八幡神社を合祀したのをきっかけに新たに二之江神社となったということである。当初「八幡神社」は図会に記されていないので祠程度のものだったろうとしていた。ところが、サイト「伝統の日本紀行」の「三十番神とも」の記述を拝見し、少し調べたので挿入する。 まずは、戦前の国家神道の状況からは、三十番神が神仏分離令以降まで妙勝寺境内に八幡神社として存続したということが私には信じられない。三十番神というのは、観念としての本地垂迹説を具象化した典型であって別当制や個人設置の稲荷神社以上に国家神道が認めなかったものだからである。 明治期のことはさておいて、昭和42年の状況を整理して見ると、この時期は戦後の宗教法人神社庁が最も力を失っていた時期である。またA級戦犯の靖国合祀問題の発端の時期であり、神道と国民との関係がどうあるべきかの理念はもとより信念も持たない人物が宗教法人神社庁のトップにいた時期でもある。現在では自民党政治家の殆どが加入している神道政治連盟(事務局は神社庁内)という政治団体も出来ていなかった。明治時代に認めたのだからというのと合祀の相手がこれも神道との関係が歴史的には曖昧な香取神社だからという程度で合祀された二之江神社は神社庁登録になったのではないだろうか。 なお別のサイトに妙勝寺の移転は大正4年で江戸川改修が要因とあるのは、図会の描くところと根本的に斉合しない。 |