法華経寺を開基した日常上人は、俗名を富木常忍と言い、鎌倉幕府の御家人としてこの地に封じられていた。同時代の領家の常として若宮八幡神社をここに勧請してあった。
 日蓮との出会いは、建長6年日蓮が総州(千葉)へ行って鎌倉への帰り旅の船の中という。日蓮が清澄寺から鎌倉に出て3年、まだ立証安国論で物議を醸す前の日蓮33歳、常忍39歳での時である。
 船中で話を聞いた常忍は、檀越(つまりスポンサー)になることを申し出、たびたび日蓮を現地へ招いた。始めは八幡神社を宿坊にしていたが、法華堂(現奥の院)を建てて日蓮の宿坊兼説法の場とした。
 出会って3年後に、日蓮が立正安国論で法難に遭ったときも日蓮を庇護して地域での百日説法を開催する。その説法を聞きに来た女性の望みで日蓮が与えた曼荼羅が妙正池の畔の桜の樹に架かっていた。 人々は女性が池の主の蛇の化身だったことを知り、日蓮が併せこの女性に与えた法号を冠した妙正社を設けて姥神として祀った。

 ここでの説法を聞いてスポンサーになった有力者は多く、その一人が常忍の居館の西の中山地域の荘園主太田乗明である。太田乗明は自分の土地に本妙寺を設けて提供した。
 曽谷教信による法蓮寺(妙正の真北2km)、秋本太郎兵衛による秋本寺(北方十字路から約13kmの白井市内)もそうだが、齋藤長秋らが訪れてはいないので本文からは省く。
 本妙寺と法華堂は、住職が同一だったので後に統合されて「本妙法華経寺」となった。
 常忍は日蓮没後出家して日常を名乗り、80歳まで長生きした。また太田乗明の子は、日常の下で修業して日高を名乗った。
 日蓮直筆の立正安国論が寺宝であり、国宝である。これは、日蓮の六老僧である日頂または日昭に与えたものが伝わったと言われている。日頂は常忍の養子となってここの貫主になるはずだったが、 日常や日高と折り合いが悪く、真間の弘法寺を開いたのち富士宮の重須本門寺の学頭に転じた。
 いずれにしても、時宗が日蓮の赦免を決める(1274年)までの間、ここが日蓮宗の最大のアジトであった。


 上記中、下線部分は図会の記述にはなく、私が他の文献等から引用または推測したものである。
 なお、図会の記述で法華堂設置が文永元年(1264)と書く一方、法華堂での百日説法は松ヶ谷法難にともなう文応元年(1260)となっている。
 奥の院の法華堂と境内の法華堂(雪旦は「祖師初説法堂」とがキャプションした)の関係かもしれないし、最初からは法華堂と言わなかったかもしれない。
さらには「永」と「応」のどちらかを書き間違えたかもしれない。