図会は、中山から入って来ているので、ここで分岐している左の道が栗原本郷の街道と考えられる。この
道から左へ四丁ばかりに葛飾明神があると書いているが雪旦の絵ではこの道の北側に沿っている。雪旦の
宝成寺と葛の井の描き方が正確なので、こちらを信ずるとと本節の図の左上になる。また、現葛飾神社の
立て札にも「西船6丁目の葛の井西の台地から」と書いてあることから、図会の記述は「船橋街道」と書くべきところを
「栗原云々」と書いてしまったと推測されるが、そうなると「四丁」ではなく「六丁」はある。
 一方、本節右上の位置に「奉勧請葛飾大明神」という祠が残っていることから、ここが葛飾神社の旧地だとの
説がある。ここのほうが図会の左へ四丁ばかりとは整合する。しかし、葛の井が神社の東にあるとの記述に
合わないし、祠が移転したものでなければこの場所は印内一丁目であり、立て札の記述とも一致しない。
そもそも「勧請」は分祀であるので、この祠は例えば成瀬家が本殿から分祀したものと見るべきだろう。