太日川(現江戸川)は、古代には市川の真間付近からデルタを形成しながら東京湾に流れ込んでいた。デルタの南側の砂州や干潟は時計回りの東京湾の潮流によって東へ押しやられていた。
こうして最も東の古利根川分流は船橋に向かって流れていた。北の台地から流れ落ちる川は太日川分流に合流しつつも、豪雨のときなどは分流を南に押しやったり、砂州や干潟を横切って
水路を形成し、複雑な地勢となっていた。 日本武尊がここに上陸したとき、地元の者の案内で一旦河口砂州に上陸後、川に船を並べて橋代わりにして台地側に渡ったので船橋という地名が起こった。という言い伝えを図会は 書き記し、案内をした者は、「ミオカワ」(=澪川)を名乗り、末裔は御代川と訛って現存していると紹介している。 図会は遠(おち)ヶ澪は、平将門の愛妾桔梗御前が身を投げた名所で俗称釜ヶ「渕」であると書きながら、場所は船橋の「沖」としている。渕は岸に近く沖は陸から遠いので、概念として矛盾がある。 この矛盾を解くカギが「澪」である。澪は、船着き場と沖との間の船が航行できる水深のある水脈のことで、遠浅の海や岩礁の多い海域で使われている。 しかし、船橋ではデルタの中の水路にも澪が使われている。次々節で触れる洗川の河口部は、「山谷澪」と呼ばれている。 山谷澪に平行して300mほど西には「稲荷澪」が、さらに同じくらい西に「海神澪」と呼ばれる場所もある。 これらから太日川を横切ってデルタを通っていた水路を「澪」と称しており、最も東にあったのが遠ヶ澪、つまり現海老川で、慈雲寺から2丁とすれば海老川橋付近の可能性もあると推測する。
元禄地震による海底地勢の変化で漁場が荒廃し、20年後には魚場争いが高まって死刑になったり獄死する者を出してしまったと不動院入口の立札に書いてある。 |