意富日神社は、大和武尊の戦勝祈願に端緒があり、清和天皇、源頼義、義家、実朝、秀吉さらには家康の庇護を受けた伊勢神宮に次ぐ由緒のある神社だった。
彰義隊による上野の山の戦争に先んじて行われた船橋戦争において、幕府軍はこの由緒を頼りにこの神社に本陣を敷いた。 しかし、その意味も判らなかった官軍はここに集中砲火を浴びせて焼き落とした。このとばっちりで成田街道と上総海道の分岐点に発展していた船橋の街は 灰燼に帰した。 また、多くの神社が合祀されたのは明治以降である。図会は、天照皇大神宮と豊受皇大神宮を本殿の祭神とし、八幡宮と春日明神を相殿としている。、 茂侶神社と意富比神社が摂社で、常磐御宮は「憚あるをもてここに載せず」としている。常時閉鎖しているのもその憚りの延長かもしれない。 記述はないが、絵には「天神」と「稲荷」のキャプション付きの祠が描かれている。しかし、現在本殿近くに置かれている大鳥神社を始めとする約30の神社は記述はもちろん描かれても いない。明治以降合祀されるにいたった由緒には「憚りある」ものもあるだろうが、明らかにして先人の幅広い発想を前向きにとらえたり、反省したりするのは悪いこととは思わない。 とにかく、現段階では少なくとも形態として正に大神宮になっている。 なお、意富日と意富比の使い分けは、図会では元来「比」だったが、天正年間に「台命によりて比を日に」と書き、摂社は従来通りで書いている。台命を発したのは、天正18年に 関東の支配者の北条氏を破った秀吉か入府直後の家康と思われるが、明治以降にそれ以前の名に戻した。 |