東大野球場入口から60mほどの急な下り坂を曲がり、坂を降り切った左に朱塗りの鳥居が立っているのが根津権現社(現根津神社:左上図@)である。主祭神は素盞鳴命であるが、18世紀初頭の千駄木坂(現団子坂)上からの移転以前から「権現」であった。別当について図会の記述はないが、絵には描かれており昌仙院神宮寺という名も他の文献に残されている。本尊を祀る本堂らしきものがないことから、いわゆる「兼帯」ではなく、神社のマネージメントのみで檀家を持たない別当だったのではないかと思われる。もちろん現在の境内に何の痕跡もない。
本殿に向かって左に徳川家宣胞衣塚があるなど当時から由緒もあったと思われる。
しかし、図会はこれに深入りせずに宝永年中新たに当社を造営と簡明に書いているだけである。
胞衣塚との間を北に進むと乙女稲荷神社がありさらに先に駒込稲荷(左上図A)がある。絵の中にはいなりが三つ描かれているが、次に訪れる根津権現旧地の絵にはっきりと駒込いなりと注記されており、この180年間に移転してきたように思われる。
神社北口を出て前節で横切った道を逆に横切って反対側の道に入る。東傾斜の斜面の中腹をほぼ直線でアップダウンなく進んだ後曲がりながら一段上に上がるこの道は、藪下通りと言ってこの先に住んでいた森鴎外がよく散歩をした道との案内板がある。右下に小学校と中学校が並んでいて、小学校は汐見という名である。
最後少し下ってのバス通りとの交差点を右に下る。この坂は上に述べた団子坂(千駄木坂)だが、図版では別名に潮見坂と七面坂を紹介している。前者は先ほどの小学校の名の由来である。また後者は坂下に付注付きで描かれている七面宮由来であろう。
この坂上の北に区の施設があるが、
この辺りが根津権現旧地である。坂のことは左上図に印した位置の説明板に書いてあるが、根津神社の旧地のことは書いてない。
七面堂があった交差点には東京メトロ千代田線の千駄木駅がある。この交差点をそのまま渡って前の道へ入っていく。
最初の信号手前右に妙林寺(安政年間の切絵図では「妙蓮寺」)が、信号を過ぎた右には法住寺があった。次節最後に訪れる
宗林寺とともに
蛍澤が著名だった妙林寺は行方不明だが、法住寺は明治の廃仏毀釈で怪談牡丹灯篭の舞台になるほど荒れ果て、
その後名前を法受寺と変え、関東大震災後
東伊興に移転している。(跡地は右図参照)
この先の三崎坂がカラーンコロンとお露の幽霊が下ってきた坂であるが、団子坂より緩やかな分長い。
上がりきっての幼稚園前の信号を右に入り、200mほど先を右に入って突き当った右が瑞林寺(右図:瑞輪寺が正しく、図会のミス)である。図会ではこの辺を上野の周辺としているが、現在は谷中の地番表示となっている。また、この寺を
身延山の触頭と紹介しており、現在も広闊な境内となっている。
信号まで戻って一つ東の信号を左折する。150mほどの右に平成24年に改築落慶した功徳林寺の入口がある。この入口の真正面奥に稲荷神社固有の赤い幟が立っている(左下図@)。
右の「感応寺其二」の図版右手前に描かれている
瘡守いなり(現笠森稲荷)である。明治になって管理していた感応寺塔中の福泉院が廃寺になり一旦寛永寺近くの養寿院に引き取られていたが、この地に功徳林寺ができて復旧した。
さらに50mほど進んだ左が同じ図版の左手前に描かれている長安寺(左下図A)である。
長安寺の前を東に入っていき、霊園の十字路で左折する。そのまま進むと正面が感応寺(現天王寺:左下図B)である。
道がぶつかったところの門から入って直ぐのところに露座の大仏があり、団体で訪れた人誰もが鎌倉の長谷寺の大仏との比較を口にしている。正門は少し東に進んだところにある。
此の寺の裏はJR京浜東北線などが走っており、日暮里駅がある。駅へ向かっての細い道が
芋坂口の現在の姿である。鉄道敷設以来位置も形も変っており、工事仮設も度々なので、自転車を引くなどして橋上改札の日暮里駅西口へ出る。